那須高原の酪農エリアにある小さなカフェレストラン「蕾(つぼみ)」。空き家を自らリノベーションしたという夫の佐久間文利(ふみとし)さんと妻の里子(さとこ)さんが営むお店だ。今回、2人の娘さんと家族4人で暮らす佐久間ご夫妻に、お店をオープンするまでの経緯からお店に対する考え方、那須という町についてお話しを伺ってきた。そこから見えてきたのは、自分らしいライフスタイルを忘れない二人の姿だった。
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お菓子職人を目指してパティシエの修行へ
広大な牧草地を抜けてたどり着いたのは、風通しのいい草原にたたずむ小さな平屋の家屋。カフェレストラン「蕾」の取材のためにお店を訪ねると、佐久間家の看板犬、カイちゃんが静かに車の傍までやってきてお出迎えしてくれた。犬といえば吠えるものという先入観があった自分は、誰にでも人懐っこいカイちゃんに、最初衝撃を受けた。
「犬は付き合い方次第で変わるんだよ」という店主の佐久間さん。さっそく「蕾」の店内におじゃまして、まずはお菓子職人である、妻の里子さんからお話しを伺うことにした。那須が地元である里子さん。そもそもなぜお菓子職人になろうと思ったのだろうか。
「うちの実家が養鶏場だったので、その卵を使ってお菓子づくりができたらいいなと子どもの頃から思っていたんです。ただ高校卒業後、ひとまず普通に就職したんですが、そこで接客の面白さに目覚めて。さらに接客を極めるために上京し、ディズニーランドで働くことにしたんです」
ディズニーが好きな人は星の数ほどいて、好きが高じてディズニーランドで働くことを夢見る女子は数えきれないだろう。しかし里子さんの視点はちょっと違う。素晴らしい接客を学ぶためにはどこで働けばよいのか。考えれば考えるほどディズニーランドが答えとして出てくる。そこで現場のスタッフとして、トレーナーやインストラクターを務めるなどキャリアを積み、ディズニーの接客哲学を徹底的に叩き込んだ。そうして3年が過ぎた頃、次の目標に向かって歩き始めた。
「接客はもう十分やったなという思いがあったので、そのあとは昔からやりたかったお菓子作りの勉強をするために東京の学校に通いました」
パティシエの勉強をしたあと働いたケーキ屋さんでは、バイトながら店長もやった。そしていつか自分のお店をもちたいと思ってきた里子さんは地元の那須に戻り、ホテルのパティシエから再びキャリアをスタートさせた。
「パティシエはとにかく体力勝負です。一見キレイに見える仕事ですけど、実は室内の土方といわれるくらいハードで(笑)。私は焼き菓子を作っていたんですが、ものすごい量を作らないといけなかったんで大変でしたね」
そうして実務経験を積んだホテルで、当時ホールスタッフとして働いていた夫の文利さんと出会う。
文利さんは地元福島から東京の大学に進学、当時知り合った同郷の先輩が始めた劇団に誘われた。そして次第に芝居の奥深さにのめり込むようになり、途中から先輩と一緒に那須に拠点を移した。以来那須で働きながら、結婚前まで10年以上演劇を続けてきた。
二人は2012年に結婚し、里子さんは子どもが生まれたのを機にホテルを退職。今まで自分の目標に向かって走り続けてきた里子さんだったが、家族ができたことで、少しずつ自分のスタンスで家庭や仕事と向き合う生活環境にシフトしていけるようになった。
長女の晴埜(はるの)ちゃんを保育園に預けるようになってからは、黒田原駅前商店街にある店舗の一角を間借りして、焼き菓子の販売をしていた。
そして2年半ほど経った頃、そろそろ夫婦2人でお店をやろうと思っていた折、ちょうど知人が借りていた家が引っ越しで空くことを知った。こうして千振(ちふり)にある家を店舗用物件として引き継ぎ、お店を開業することになった。それもきっちり計画を立てて進めてきた結果というよりも、人とのご縁で少しずつ条件が整っていった感じだと、文利さんは笑う。
「実は意図的に状況に身を任せているところがあって。そのほうが予期せぬ方向に向かったり、自分たちでは生み出せないものが生まれたりするから」
そう答える文利さん。自然体の姿勢がお店の名前にも表れている。
「蕾(つぼみ)は開花する前だから不完全ですよね。だから、これから未知のことが訪れるという意味をこめて付けたんです。あとは、奥さんの手作りのお菓子がつぼみみたいに見えるというのもあったので、それと掛けた」のだそう。
開放感のある草原に手作りのお店をオープン
2018年に焼き菓子とカフェのお店として一度オープンしたが、すぐに2人目のお子さんが生まれたため、1年間お休みすることにした。それも自分たち家族の時間を大切にしたかったから、あせらずにじっくりと準備を進めてきた。
再オープンまでの間、文利さんは地域の人から頼まれた仕事を請け負いながら「蕾」の空き部屋をリノベーションしてきた。天井の断熱から壁の漆喰(しっくい)塗り、床板の張替え。お客さんが座る椅子も文利さんの手作り。当初焼き菓子の売り場とカウンターのみだった店舗スペースから、平屋の家屋全体を開放してランチが食べられる店内に拡張した。
既製品はなるべく使わずに、できることは自分たちの手でつくる。そこが「蕾」の家庭的な雰囲気を生み出している。
ほとんどひとりで改修をしてきたため、作業は開店ぎりぎりまで続くことになった。それでも2019年4月16日、ついに「蕾」が1年ぶりにオープンした。以来、お客さんは地元から観光の人まで、半々くらいの割合でお店を訪れる。
那須という場所はハイシーズンになると多くの観光客でごった返す。そのためお店の駐車場が満員のために待つこともあり、意外とゆっくり食事ができないなんてことも。その点「蕾」は那須観光の中心地から少し離れていることもあり、周りが静かでのんびりと過ごせる。作りこまれたコンセプトをお店に持ち込まないから、ありのままの那須の日常を感じることができる。
ランチは地元の農家さんが作った野菜やお米などを使用。旬のものが一番おいしいと思っているから、できるだけ旬の食材を使い、素材がもつ味を生かした料理をお客さんに提供している。
「僕たちには突出した商品があるわけではないし、特別なことはできないと思ってるんです。だから焼き菓子やランチ、そして店内も、手作りのほっとできるものを提供したいんです」と語る文利さん。
肩肘張ったお店ではなく、畑仕事を終えたご近所さんが長靴のままぷらっと立ち寄るようなお店にしたい。それは同時に観光に来たお客さんにとっても、せわしない日常を抜け、どこか懐かしくて居心地のいいお店と感じるに違いない。
佐久間夫妻の穏やかで気さくな人柄も手伝い、来店したお客さんは2人との会話を楽しんで帰っていく。実はこういう時間が、旅を一番思い出深いものにしていくのだ。
お店の外は気持ちのいい草原になっていて、さわやかな風が流れている。
「千振という地区は独特な場所だと思っています。酪農家の人がたくさんいる土地なんで、牧草地が広がっていて風が抜けるというか。もともと那須に移り住んで来て開拓してきた人たちですから、他所から来た人に対してオープンなんですよね。そういう意味でも風通しがいいと思います」
お店の色づけをあえてしない。そこから多様性が生まれてくる
商売のセオリーからすれば、お店づくりは明確なコンセプトが大切だといわれる。しかし文利さんはひとつの尺度で測れるようなものにしたくないし、カテゴライズされるのも好きではない。それは那須で10年間演劇をやっていた時代に、劇団が表現してきた姿勢と重なってくる。
「劇団の舞台では、ひとつのセンスや価値観だけで空間をつくらないようにしていたんです。とにかく異質なものをいっぱい入れたりして、そこに生まれてくる空間を大切にしていました。そういうのが今でも根底にあるのかな」
お店の色づけをしたりこだわりをアピールするのではなく、お店の固有性はじんわりと人に伝わっていくものだと信じている。だから受け取り側のお客さんによって、多様なお店のとらえ方があっていい。
「セオリーから外れていますよね。日曜日は子どもと過ごすためにお休みにしているし(笑)」
人によってはツメが甘いと思われるかもしれない。しかし人手不足による閉店や、24時間営業が見直される社会の風潮など、お店のあり方は確実に変化してきている。そういう時代において、今までのセオリーだけがお店のあり方だとは必ずしもいえないのではないだろうか。顧客満足を追求し、合理性の徹底されたサービスも尊いが、一方で家族も仕事と同じくらい大切にするお店の姿勢に、お客の共感が少しずつ集まる時代になって来ているかもしれない。佐久間夫妻のお店との向き合い方を見ていると、そんなことを考えてしまう。
当たり前に美味しい那須のご飯があって。味わい深いコーヒーや焼き菓子があって。那須の心地よい自然の中でゆったりとした時間を過ごせる小さな家。
「蕾」は特別な日のためにあるのではなく、日常の中に居場所がある。だから佐久間家に会いに行くようなつもりで来店することをオススメしたい。
二人の気さくな人柄に、きっと会話の花が咲くことだろう。
【カフェ・焼き菓子「蕾」】
場所:栃木県那須郡那須町豊原丙4961
営業時間:12:00~17:00(季節によって変更あり)
定休日:日・月
連絡先:080-6006-4544
Instagram:yakigashitentubomi